1995年1月17日の朝。
いつものように起きて、まずテレビのニュースをつけてキッチンに立っていました。
しばらくして聞こえてきたのが阪神淡路大震災の第一報。
《関西で大きな地震があった模様》ということだけです。
最初のうちは、《大きな被害の情報は入ってきていません》という報道が続いていたと思います。
当時はインターネットやSNSなどありませんから、緊急時の情報源はテレビかラジオだけです。
『大変な地震だったようだけれど、あまり被害がなくてよかった…』と安心しかけたのも束の間、次々に被害状況が伝えられ始めました。
画面に映る映像でも、高く立ち上る黒煙があちこちに見られるようになり、高速道路や建物の倒壊も報じられて…身体が震えたのを覚えています。
私の実家は当時岡山にありました。
そのあたりでも大きく揺れたということを知り、電話をかけてみるのですけれど一向につながりません。
多くの人が一度に電話を使ったことによる障害でした。
『今は電話をするべきではない』と思い、落ち着かない時間を過ごした後、夜になってようやく母と連絡が取れたときにはホッとしたのを覚えています。
私が生まれた神戸の街は大変なことになりました。
赤ちゃんの頃に過ごしていた場所も、大きな被害があったそうです。
関西方面に親戚や知人も多かったので、数日間は心配ばかりして過ごしたものです。
ちょうどその頃、我が家は転居を控えていました。
息子たちが幼かったため、母が手伝いに来てくれることになっていたのですけれど、新幹線が不通です。
飛行機で…ということもできないわけではありませんでした。
でも本来なら受験生が多く動く時期です。
ご家族が被災されたりして、どうしても移動したい方も多いでしょう。
各交通機関からも、緊急の方の移動を優先させてほしいというお願いが出されていたように思います。
もちろん、《camomille家の引っ越しのお手伝いは緊急じゃないわね》ということに。
大学受験などにも大きな影響があって、混乱していたのがつい最近のことのようです。
あの震災では、建物の倒壊で亡くなられた方が多かったのですね。
下宿先のアパートが倒壊して…という大学生も多く、成人式を終えたばかりの若い人たちも…。
報道を聞くのも辛い日々でした。
どれほど無念だったことかと、今でも胸が痛みます。
今朝もその時刻に手を合わせて祈りました。
あの日から24年。
忘れられない日です。